

目にみえないものたち
最近、再び登園自粛をしている我が家では息子の登園日には、近所の大きな木の下でひと休みしてから帰る。 とても美しく大きな木で、「きれいだね〜」と言いながらおやつを食べたり、蝉が出てきた穴を埋めたり、雑草を抜いたりしてなんでもない時間を過ごす。その時そっとマスクを外すのだけれど、いかに日々自分が様々な香りや季節の移ろい、自然の中で起こっていることの多くを見逃しているかを思い知らされる。 物理的な接触を避けることは、世界との多くの接点を減らすことでもある。 そして自分たちがいかに「身体的」な存在かも思い知らされる。いま私たちは”不要不急”のコンセプトが作り出してきた、できるだけムダをなくす効率化の中で生きている。もちろんいまは緊急事態、それを最優先して生きてきたし生きているけれど、それが生む弊害ももうたくさん知った。 もともとムダなことが大好きで、そこにこそ価値を見出してきたような人間なので、今の生活が失ってきた大きなものを認識しやすいものかもしれない。 日々、もがいたり怒ってもしょうがない、焦ってもしょうがないことばかりで、でも小さい頃から長距離より


対岸と此岸、他者と自分
いま自分の視野や目に、見えていないものを見ようとすることはとても難しい。 先日友人と「学と情報と政治」は当然ながら密接に絡んでいるよねという話をしていた。 彼女も私も、割と地方の出身で、なかなか大変な家庭環境をお互いサバイブしてきた感じなのだけれど(そして女性ということもあり)、だからこそ見えている「学」の人生における重要性と、そこからいかに「情報へのアクセス」、ひいては自分たちの生活に直結するはずの「政治」に一市民として参画できるかどうか、というプロセスを身をもって体験したからこその視点でもある。私たちの親やその前の世代、特に女性にとってはそれは全く当然ではなかったということも含めて。 そういうふうに、以前は自分の視点から見えていなかったものがいま見えている経験をした人たちにとっては、もしかしたら「いま自分に見えているものだけが真実ではない」という当然で自明のことはより認識しやすいのかもしれないし、そうでない人には想像する以上に難しいのだろう。 あまりにも想像力が欠如した出来事が多い。 一方で、他国では自由と尊厳が奪われつつある。政権が変わった


諸行無常(にあらがう)
日々、灼熱の中、気が遠くなるような引越し作業を通して、自分の過去や諸々と対峙してます。 私にはいわゆる「実家」という場所が存在しないので、小学校時代から大学〜就活の時のものなどが自宅にあり、だからというのもあるかもしれない。 今日は、大学時代に父に買ってもらった東芝のdynabookとさよならしました。 いま考えると相当ぶ厚く重く、これを毎日背負ってモントリオールの大学に雪のなか登校していたのは体調不良をきたしかねなかったし、就活のエントリーシート数十社分もこれで行っていたという本当に思い出深い存在。でもきちんとした業者さんにメモリー消去依頼も含めてさよならできたので、なんだか誇らしい気持ち。 なにかものを手放すときに、本当は何も変わらないものなんて何ひとつないこと、そして実は自分はそれをよく知っていて、変わらない(ように見える)ものを手元に置いておくことで、その諸行無常に少しでも抗おうとしているんだよな、と感じる。そんな自分を認識し、微笑ましいと感じる程度には大人になれたのかもしれない。 そして日常生活から一歩俯瞰してみることとか、普段会えない


Beautiful Perspectives
諸々の事情で今月末に引っ越すことになり、猛暑の中、大量のモノや思い出たちと向き合い絶望しています。 そういえば私は引越し、ほぼ4年ぶり人生15回だったことに気づく。そして全てが東へ移動しているのも面白い(そろそろ西に引っ越したいな)。単純に年齢で割ると、2.4年に1回は引っ越してるわけで(多いな)、先日「成長期に引越しが多いと鬱になる可能性が大きい」という記事が出ていたが全力で否定していきたいと思う。 そんな中、まぁコロナだし仕事も子育ても平穏な1日なんて存在しないぐらいなんかやかあるし、落ち込んだり絶望したりしていますが、先ほど英語の仕事メールに「Beautiful Perspectives」という言葉を入れてみた。多様な視点、視座の高さ、視界が広い・・など色々なことが求められる時代ですが、そこに私は「視点の美しさ」を加味していきたい。ただただ具体性のないそんな宣言です。笑 これからの時代、強さだけでも柔軟性だけでもダメで、戦える武器は多いに越したことはないし、仲間は本当になにものにも変えがたい存在。そんな中、いかにしたたかなだけではなくしなや