

「無境界」への憧れ
「老人と海」を改めて読んで、この作品に現代人が求めてやまないものは、まさに「無境界への憧れ」だと思った。 大ブームになってから久しい「孤独のグルメ」冒頭でも、 "社会や時間に囚われず、幸福に口福を満たす〜" という能書きがあるけども、そんなの比にならないぐらいの囚われなさ。 名もなき「老人」(本当の名前はサンチャゴだが、作中では滅多に語られない)、職業は「漁師」。老人の過去も未来も、あまり語られることはなく、あるのは只現在のみ。そして老人は、無境界の極みである大海原へ繰り出していく。 そこには社会の縛りも時の流れもなく、ゆえに老人はあなたであり私であり、あるのは只「命同士の戦い」。たまに「魚の視点」になってしまう「老人」を介して、解釈は自在に読み手に委ねられる。 社会や時間という境界にがんじがらめになりそうになったら、野生児であった幼い時に戻りたくなったら、老人と海の大海原へ櫂をこぎ出すことができる。 必死に読んでいると、うっすらと自己が海のなかに溶け出していくような、そんな作品なのだなぁと思ったのでした。


はやとちり
たまに、猛烈に聴きたくなる曲がある。 宇多田ヒカルの「はやとちり」。 「HAYATOCHI-REMIX」というリミックス曲もある。私が本当の意味でリミックスを体現する世界に出会ったのはこの曲においてで、個人的に大好きな「リミックスとはなんぞやの云々」もここにすべて詰まっていると言えるほどの名曲。 リミックスとは時に、原曲を超えるほどの解釈を提示し得るものである、と思う。 この曲においては、何かしら劇的な心情の変化も、それこそ「First Love」に代表されるようなダイナミックな恋愛も、「Movin' on without you」に代弁される失恋もないけれど、最も愛すべき日々の心情の機微が表現されていて、なんだかとても無性に聴きたくなる。 13歳の時に、Automaticを西友のCDショップ「WAVE」(今もあるのかな)で視聴し、即「ナンジャコリャ!」との衝撃を経たのち、人生初のライブ経験を「Bohemian Summer」で済ませた私にとっては、我が"宇多田ヒカル人生"を掲げても、最も好きかもしれない曲、それが「はやとちり」なのだ。 劇的な情


点と線
週末の朝、早起きをして船橋まで高校バスケの関東大会を観に行きました。 小学校・中学校・高校まで7年間ずっとバスケをやっていて、一生分、走ったのでもう二度とやりたくないし、少しも走りたくないと引退してここ13年間ずーっと思っていたのだけど、今年は色々と「再会」の年なのかな。なぜかふと無性に試合を観たくなったのでした。 会場の熱気、当時と変わらない強豪校のユニフォーム、歓声。 記憶はあっという間に体を過去へ連れ戻して、本当は13年なんて経ってないかのごとく熱中。7年分の悔しさも、嬉しさも、涙も全部すぐそこに触れられるようだった。 今だからわかるんだけど、それは全て、確実に自分のDNAの一部になっている。 チームで戦うという戦略、個人の良さを最大限生かし合うこと、は確実に今の仕事に生かされている。仕事への姿勢や向き合い方にも。 やはり精神と肉体はひとつである、とも。 フィジカルのトレーニングでは、インプット(練習)に対してのアウトプット(結果)が時差を経て現れるのだけど、それは勉強でも同じだし、いまの仕事でも同じ。自分の強さや弱点も、私はバスケを通して


あの頃と同じ匂い
この度、4年愛用したMac Book Airを卒業しました。(写真右) 共にがむしゃらに走り続けてきた愛機、時期を図ったかのようにコトンと急に息が切れてしまった。激務を共に過ごし、独立も経て色々なことを一緒に見て、乗り越えてきた。(と私は思っている) そして新たな相棒に、こんにちは。(写真左) 久々の購入、セットアップを通して思い出したのは・・ 14歳の時に初めて買ってもらった、iBook G3 Tangeline。開封した時、変わらない無機質な匂いがした。 それまではデスクトップのMacintoshを使っていたのだけど、色々な理由で家族が離れて暮らすことになり、新たなコミュニケーション手段として当時有線のネットワークを電話機から接続し直してジコジコ言わせながらメール1通送るのにも数秒(どうかすると数十秒)かけて、世界と繋がっていた。初めて見たネットの世界は、文字通り無限に世界が広がっていくようで、怖くもあり、若い私はその可能性に心底ワクワクした。そんなものが十数年後には商売道具に、さらに実質上、手のひらサイズになっているのだから世界はわからない