

これからの教育と、本当の働き方改革
今週からまた新たな日常の始まりです。 旅の良いところは、戻った日常もまた良いと思えるところでもある。 で、色々と振り返ってみて。 自分がいまぶちあたっている問題を打ち明けてみると(今思うと自分から何かを相談することがあまりない性分なんだな)、「実は私も」「そうなの?教えて!」など多くのポジティブな共感をいただけることにも気づき。そしてこれこそが、いつも学生に講義している通りソーシャルデザインのタネでもあるよなぁと。この問題は広くシェアしておいて、誰かのためになれば良いなと思い、形に残しておくことにしました。 ・子どもを預けられない個人事業主の現状 保育園等の事情は各自治体で異なると思うので一概には言えないけれど、国内では2016年に匿名の保護者が投稿した「保育園落ちた日本死ね」問題をきっかけとして、かなり議論されるようになったとは思う。 でも、まだ具体的な解決策が足りないのも事実。それがようやくこのコロナ禍で、「本当の働き方改革」と合わせて少しずつ改善されれば良いなと思っているし、そのために自分ができることはやっておきたいというのが今の正直な気持


普通ってなんだろう
ここ一週間は心身ともになかなかハードで珍しく疲弊しており、2月から毎週更新し続けていたこのブログも先週はお休みしてしまいました。。悔しいので今週は更新2回を目標にしたい。今日は打ち合わせ(出張)で松本へ向かっており、その車中でようやく時間が取れたのでこれを書いています。 小さい頃から幸いにも「普通」という価値観(より明確にその言葉の指す意味を紐解くと「大多数」「一般的」という文脈で使われることが多いと思うのだけど)をあまり重視しない環境に育ったせいか(よく「あなたはどうしたいか」ということ問われる家庭であった)、成長してから世間に蔓延る「普通」という概念の多さに人よりは多くぶつかったかもしれない。 例えば私は今でこそ一般的になりつつあるひとりっ子家庭に育ち(小さい頃は子ども目にもわかるほど偏見があった)、首都圏では田舎の出身であり、母子家庭であった時期もあり、受験に失敗してどこにも社会的に属していない期間があったり海外で暮らした経験があったり。その都度、よく言われる「普通」という価値観とはわりと戦わざるを得なかったと今ながら思う。(もちろんこの世


思考を言葉にする
週末、およそ30年近くぶり!?に巾着田という場所に行きました。 文字通り、川が巾着の形に丸く湾曲している穏やかな場所で、小学校の遠足や家族で何度か訪れた場所でした。 遠足の時、クラスの男子がカエルをつかまえたのが嬉しくて、帰り際にカエルを入れた水筒以外の荷物を忘れてみんなに笑われたこととか、田んぼのそばで絵を描いているおじさんの絵がきれいですごいねと言っていたら、連絡先入りの絵葉書をくれたこととか。意外と思い出が詰まっている場所でした。 そしてこの土地は高麗(こま)という地名やキムチを使った料理が郷土料理でもあったりして、その昔(700年代)に朝鮮半島の新羅や百済との戦いに敗れた高句麗の人たちが移り住んだことが由来しているとか。(ここで繋がる世界史に興奮!)もう1300年も前のことなので、さすがに街並みや観光できるものとして何かが残っているわけではないですが、それにしても。海を渡ったあと、どうしてこんな内陸まで移動しなければならなかったのか。何かのっぴきならない理由があったとは思いますが、この穏やかな土地で暮らしたかったという気持ちはとてもわかる


割り切れないことの尊さ
ここ数日、めっきり涼しく(というかもはや寒く)なってしまい。 私はまだそこかしこで声の聞こえてくる蝉たちのことを心配しています。ここ数日、なんだかバタバタしていて落ち着いてPCに向かっているのは夜23時。あっという間に現れた秋の虫たちの声を聞きながらこれを書いています。今年は季節が予定通り回ることが、頼もしくもあり、置いてきぼりのような気持ちにもなる。 年を重ねれば重ねるほど、「割り切れないことの尊さ」について思う。 若い頃は、というか自分の性格なんだろうけど、何かと白黒つけることをヨシとし、それはもう今考えてもしんどい生き方をしていたなぁと。むしろ、世界が複雑だからこそ白と黒を希求していたのかもしれないけれど。でも時間を重ねて色々なものをみていくと、当然のことながら物事はそんなにシンプルではないことの方が多いし、それに対して割り切れるほど人間のこころも単純ではない。 何かで読んだ本で、古くから日本には「狸や狐に化かされる」という言葉があるように(もちろん本当に化かされているわけではない)、時として起こる不測の事態や、何かの枠組みから外れてしまっ