
ダブルバインド
最近めくるめく変化する夏の空がきれいで、息子と保育園の帰りに自転車から「くも、きれいだね〜」と言いながら帰っています。 私は元々スポーツを長くやっていたし、なんなら家族でもバスケット準決勝のチケットが当たっていたので恐らく人生に一度きり、息子と観に行くのを楽しみにしていたのだけれど、いまの社会の「ダブルバインド」なあり方については、ものすごく消化不良気味でうまく言語化できず、しんどい気持ちで過ごしています。 *私は決してアンチスポーツでも、命をかけて想像できないぐらいの努力をしてきた選手や関係者を批判したいわけでもない(むしろすごく応援していた)ことを改めて伝えたい。 いまは世界的に見ても非常事態で、表向きには連携とか"United by emotion"とか平和とか謳われていても、なんだかそんなものが空疎に響いてしまう。いまも変わらず苦しい状況にある人たち(健康面や経済面や精神面など)が多く存在する中、どうしてもこれまでのようなメンタルでスポーツを観られないし、応援できなくなってしまったことが悲しい。ニュースで「誰々が金」などと見るにつけ、他の

象徴なんていらない
子どもと灼熱の炎天の下ずっと遊ぶという魔の四連休をなんとか切り抜けたわけですが、新たな週が始まっても満身創痍感が抜けず、思いや情熱だけでは年齢に勝てないことを実感しています。(思えば20代は本当に体力オバケだった) 今週は、象徴なんていらないっていうことを考えてます。(雑な切り出し) 多様性とか、女性の活躍とか、ジェンダーレスとか・・何かにつけて「〜の象徴」を見かけるシーンが多いですが、本当に必要なのは象徴でも印象でも権化でもなく、その事象が成立するに足る、具体的な「支援」と「制度」だと思う。 何にせよ「〜の象徴になりたい」と思って生きている人はいないじゃないですか。(いるのかな?)そうではなく、それぞれの道をひたむきに走ってきた結果が、その”象徴”と呼ばれているのであって、それが"象徴"として必要とされるということは、その事象が定着していない証ということでもある。そんな中「〜の象徴」と一方的にラベリングされるのってどういう気持ちだろうか、と考えてしまう。(しかも〜大使などと違い、〜の象徴って事前に個人の承認なしに行われるしね) 「多様性の象徴」

エコーチェンバー
一気に梅雨が明け、夏らしさ全開で開会まであと2日ですが、疫学的人道的視点から見たリスクというか崩壊が止まらない。 政治も経済も、企業も組織も、どんどん単位を分解していくとそれはとどのつまり”人"でしかないのに、それが集合体になるとうまくどころか全く機能しない状態、もっと言うと多様で優秀な個人を無力化する組織のあり方みたいなものをここ数年考えています。これは現代の日本における病ともいえる。 いま日本の政治とか感染症対策を担っている人たちは、どう考えても日本のトップレベルで、場合によっては世界レベルで優秀であったり何かしら得意分野を持っている人たちであったりするのに、どうしてここまでどうしようもないレベルの問題が起き続けるのか。個人レベルであの音楽家の方がこのような祭典の場にふさわしくないのは理解できるはず(普段全く違う規模感で仕事をしている私ですらさすがに回避するリスクレベルというか人道的判断)、そしておそらくその先の上司レベルまでは理解できるはず、それがより大きな枠組みになるとなぜ全く機能しないのか、本当に不思議でたまらない。 コミュニケーション

蝉の記憶
今年に入ってからずっと体調が悪くはないけど本調子ではないな〜という感じが続いていて疲れが抜けず、今年は本厄だった!と思い立ち、遅まきながら近隣のお世話になっている神社へ厄払いへ行きました。その神社は、私の産土神社の御祭神と同じ「応神天皇」であってとてもご縁を感じている場所でもある。 神社ではもうとっくに蝉が鳴き始めていて。 我が家は父も母も、私も7月生まれだったり、18年間生きた愛インコが7月に飛んできたり、じいちゃんもばあちゃんもお葬式は夏だったり。家族の記憶は夏が色濃い。(だから自分の子どもが冬生まれなのはとても意外だった) 小さい頃から親戚や祖父母と遠方で暮らしていた私の、祖父母や親戚との記憶もいつも夏。 それにしても、日本の伝統的な建築や家屋がいかに感染症対策になっているか毎度のことながら驚かされる。 日本各地の神社に手水が設置されたのは約千年前ほどのことで、それらは精神的な意味合いとともに、感染症対策も踏まえていると読んだことがあるが納得。風通しが良く、湿度の高い日本の気候風土に合わせて湿度調整や抗菌作用までを持つイグサの畳。心地よさは

思えば遠くへ来たものだ
日本の梅雨も、もはやスコールではないかと思うほどの振り方で、変な天気が続いていますが、 日本を取り巻く状況は、想定しうるなかで最も悪い部類のものになりつつありますね。 今朝は茨城県の大学で講義をさせていただくため、初めて乗車した「ひたち」の中からこれを書いています。 「ひたち」に乗る前、みんな下を向いてひっそりと歩く東京駅構内を歩いていて、椎名林檎さんの「長く短い祭り」という曲を思いました。本来であれば、去年か今年にこの東京駅構内も多様な国からの方々で活気が溢れていたはずだけれど、私たちはとても遠い場所まで来てしまった。そんな感慨をこの楽曲の、タイトルにもある「思えば遠くへ来たものだ」という言葉に尽きると感じました。同楽曲では、「忘るまじ 我らの夏を」とも。みんな絶対に忘れないで、選挙に行こうね。 先日、まさに都議会選がありましたが、年を経るごとに「自分の選挙権は自分のためのものだけではない」という思いが強くなりました。特に女性が選挙権を得るために多くの人たちの犠牲や努力があったこと。また、私には選挙権のない子どもがいる。私が政治を自分の生活のひ