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モンゴル高原

  • chiharuf
  • 3 日前
  • 読了時間: 6分

更新日:2 日前

あっという間に梅雨入りして、湿度が高い日々が続いていますが、皆さまお変わりないでしょうか。湿度はいろんなものの大敵だと思っているので(乾燥も)日々、除湿の妖怪と化しています。


ベランダの南天の花
ベランダの南天の花

・たまごっちにみる現代の世相

このたび息子がたまごっちをゲットし、30うん年ぶりにたまごっちをやっているのだが、現代の世相や死生観とあわせたその設定にびっくりした。


初期たまごっちは生育レベルによって7種類のキャラクターに進化し、あまりにもお世話しなかったり寿命がきたりすると容赦なくキャラクターが病気になったり亡くなる(たしか開発者の方はそれを、ゲームのなかに少しだけ”トゲ”を持たせると表現していたように思う)、というものだったけれど、現在の「たまごっちパラダイス」は、まず視点レベルが惑星→フィールド→たまごっち本体→内面(細胞?)という4段階で分かれている。お世話するたまごっちだけではなく、上層概念?としての惑星も生きている。まず私はこれにものすごく感心してしまった。

昨今たびたび話題に上がる「プラネタリーヘルス(地球や自然環境の良し悪しが、そこに生きる生物である私たちの健康にも影響するという考え方)」や、発酵を含めた菌類への眼差しなど、現代の世相をよく反映させていて、バンダイ開発担当者のお話を聞きたくなってしまう。


そして現在のたまごっちは生育したか・していないかではなく、どんなごはんをあげたか・どれぐらい遊びの確度が高かったかによる生育の「質」を影響させていて、これもなんとも現代的ではないか。。。


極め付けは、成長後たまごっちから「リリースする?」と質問されて、昭和生まれの父母は(え?天国にリリース・・ってこと?)とざわついたのだけれど、なんとお世話が完了したたまごっちも、現在お世話しているたまごっちの背景にリリースし、楽しそうに遊んでいる。お世話すればするほどフィールドが賑やかになる仕様。(平成のたまごっちは病気や寿命で容赦なくお墓画面に移行されていた)ついに死という概念を手放した(超越した?)たまごっち。


そして面白いのは、息子はじめ友人たちはたまごっちのことを「1体(たい)」と表現していて、母は目玉が飛び出した。彼らのなかでは飼育対象としてのペットではなく、神仏の分身となるものや人間の身体を持ったものを数える際に使われる「1体、2体・・」という単位が使われている。そういえば、ウルトラマンも・・・そもそもウルトラマンは人類を超越した宇宙的存在としての・・・というところで、思考が止まらなくなったので考えることをやめた。


ちなみに現実世界で彼らがどハマりしているのはダンゴムシ。笑

みんなで校庭のダンゴムシをかき集め、廊下に落としては用務員さんに叱られながら(ゴメンナサイ)、教室で50匹ぐらい飼っているらしい。ダンゴムシの単位は、匹。飼育対象としての生きもので安心した。


・平和を愛する八百万の神たち

ふだん部屋のテレビを音声なしでつけながら仕事をしていて、そのときどきのニュースを無音のまま目で追っているのだけれど、その日はたまたま放送されていたアンパンマンに釘付けになった。


やなせたかし大先生が、いかに平和を愛し、世界からお腹をすかせた子どもたちがいなくなることを願ってこの偉大な作品を書き上げたかはいまさら補足するところでもないけれど、歳をとってみればみるほど、涙なしでは観られない作品になっていく。


多様な食べものたちに宿る命はそのまま、日本が古来より大切にしてきたアニミズム&いただきますの精神であり(なんと道具にも命が宿ると信じられてきた)、そこに宿る命の善悪はなく、一見悪者に見えるバイキンマンですら善悪の垣根を超えて仲間たちと畑を耕す・・・(そういう回だった)。善悪の二項対立としての物語ではなく、日本が畏れ愛してきた妖怪のように、環境や状況によって善悪の曖昧な境界線に立つバイキンマンはそのまま、昨今研究がより進められている菌類のあり方のようでもあり、さらには攻撃もメロメロパンチだったりして(メロンパンナちゃん)、なんて素晴らしい物語なんだろうと、目が離せなくなった。


そしてエンディングの歌詞がもうスタンディングオベーション。

その後YouTubeなどコンテンツが多角化していく前のほぼすべての未就学児がもれなくハマりし、修了していくアンパンマンというカルチャー(なぜかうちの息子はアンパンマンブームが来なかったのだけれど)、そんな子どもたちが永遠に平和で、腹を空かせて泣くことがないようにと私も願ってやまない。


そうだ うれしいんだ 生きるよろこび

たとえ胸のきずがいたんでも

なんのために生まれて なにをして生きるのか

こたえられないなんて そんなのはいやだ!

いまを生きることで 熱いこころもえる

だからきみはいくんだ ほほえんで


・モンゴル高原

父は昔から、一度でいいからモンゴルの遊牧民が暮らす移動式住居「ゲル」に泊まってみたいと言っていた。当時の私は、「キャンプ好きだしね」ぐらいに思っていたが、年々自分が父のような趣味嗜好になっていき、さらには当時の父の年齢に近づくにつれて、私もなにか遠くDNAから呼ばれるような心持ちで、ゲルに泊まってみたいといま思いはじめている。


モンゴル高原では、現在もゲルで暮らす人びとが推定で数十万人いるといわれている。けれど面白いのは現代化やライフスタイルの変化ともに、季節性遊牧民(夏の間だけ高原で暮らし、冬の間は都市で暮らす)や、遊牧民だけれどスマホなどを駆使した新型遊牧民(?)、そして孫世代は都市で暮らしているが、祖父母は遊牧民などの世代格差遊牧民(?)など人びとの暮らしは多様化しているらしい。日本の比じゃないレベルで現代化の波と対峙していて、人間らしくてなんだかとてもワクワクする。


モンゴルの現代の暮らしを人知れず調べ、行くあてもないのにワクワクすることなども、人知を超えて、刷り込まれたDNAなのか遺伝なのか、意識的な刷り込みなのかわからないけれど、人というのは案外こういう先天的なものや巡り合わせによってかなり誘導されているなと感じる。後天的な自分の意志で完結できることなどほんの一握りもないのではないか。


そして父はついぞゲルを体験することなく鬼籍に入ったが、当時は理解できなかったゲルの暮らしへの憧れをリアルに感じおこしているいま、私と父の関係性も変わり続けているように思う。人がそれぞれの存在を認識することができるのはその関係性があるからで、ということは人はもしかして体という形がなくなっても、そういう意味で関係し、存在し続けることができるのではないかと思い始めている。


明かりもなにもないモンゴル高原で眺める星空はきっととてつもなくきれいだろうなぁ。

そんな闇雲な想像や妄想も、また明日を生きていく糧になっていく。

 
 
 

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