家族の記憶と桜島
- chiharuf
- 7 日前
- 読了時間: 6分
あわただしくも新生活。
そしてこのブログも毎年更新の時期に、費用もかかるしどうするかなぁと思いつつ、なぁなぁで自動更新され、そして1年間も休んでしまっていた。でもあらゆる高品質なサービスが無料になるなか、お金をかけて自分の言葉を発信する(しかも超手作りのサイトで)というのもなんだか責任が伴っていて良い気がするので、もうしばらく続けてみようと思う。

・不惑か、不枠か
ようやく40歳になり、人生も折り返し地点。
よく「不惑」と言われるけれど、どうやらその「惑」とは、「枠」のことであるらしいことを最近知った。確かになりふり構わず必死に生きているうち、枠などもうどこか遠くへ行ってしまった。なりたい自分も、やりたいことも、やらなきゃいけないことも、もう特にない感じがする。(大丈夫か?笑)
でも一方で、枠を外してみてからやっと肩の力を抜いて、ありのままの人生を始められるような心地もする。
そしてこの人生というものは、
人はどこから来てどこへ行くか不明
人は老い、いつか必ず死ぬことだけは明確
でもそれがいつかは誰にもわからない
という前提が、ゲームであれば到底「無理ゲー」で、そんななか必死に生きなければいけないことが、たまに滑稽にも感じる。ただその前提を確認するおかげで、日々がむしゃらに生きているけれど、時折「あほくさっ」と肩の力を抜ける瞬間がある。(笑)そして、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。この限りある世界では、限りなくみな平等なのだよ。みなさんも肩の力抜いて、楽しんでいきましょう。
・家族の記憶と桜島
先日、コロナや父のごたごたで長いこと会えていなかった鹿児島市内の施設で暮らす祖母に会いに行った。
コロナで会えない時も、祖母側のお墓参りには出張ついでなどにせっせと通っていて。息子は生まれた時に会いに行ったきり実に7年ぶりの再会で、全く別人に育っている彼を見て、祖母も驚きうれしそうだった。今年87歳になった祖母は、見るからに老いていた。
我が家は母が薩摩半島、父が大隅半島の出身で、夏休みにはそれぞれを行き来して私は育った。長く転勤族だったけれど、ルーツを感じられる鹿児島が私は大好きで、自分の原点や原風景を作ってくれた場所。でも早くに祖父と離別して厳しい時代を過ごした祖母と母にとって鹿児島は辛い記憶の場所で、私が13歳のときに母と離婚した父も亡くなってしまったいま、鹿児島に残る家族は祖母のみ。祖母が関東へ移住しようとしたこともあったがうまくいかず、結局ひとりで鹿児島へ戻り、自分だけのお墓を買った。
美しい高台から桜島と錦江湾を眺められる日当たりの良い施設で暮らす祖母と会い、話しているうちに、自分たちはなぜ離れて暮らしているんだろう。都市部で、家族とも離れてたった3人きりで。どうしてこんなに老いている祖母は人生最後の時間をひとりで暮らさければならないんだろう。と、自分ではどうしようもなく得ることがかなわなかった選択肢を振り返り、すでに数えきれないほど枝分かれしてしまった過去を反芻するような時間だった。そしてそんなすべてを、いつだって桜島と錦江湾は溶かしてくれる。
私は生まれてから一度も母方の祖父に会ったことがない。その祖父はなんと13人兄弟で、兄弟のうち2人も特攻隊で亡くなったことを初めて祖母から聞いた。会ったこともなく、顔も知らない彼らのことだけれど、息子にもきちんと伝えていかなければならない。
父方の祖父母と父と立て続けに失ったので、私にとっては最後のおばあちゃん。
また会いに行くね。
・市井の人間、人と仕事をする
なぜかずっと自分のなかに、「市井の人間でありたい」という感覚がある。
どう考えても貴族や富豪になる予定はないし、市井の人間でしかありえないのだけれど(笑)、ずっと心のなかに、「それは田舎のばあちゃんに伝わるか?」という気持ちがある。代々、百姓の出だからか。
一部の人間による、一部の人間のためだけの、エクスクルーシブなものではなく、
入口も出口もでっかくて、みんなが入れて、できれば楽しめるようなもの。そんなものや社会を目指している。
そして最近心がけていることに「人と仕事をする」がある。
一部の人間が作ったAIによって、人間の暮らしや生活が根本的に変わったり、多くの仕事が失われたりするだろうという悲観的な見方がうっすらと社会を覆っている。確かにAIは便利で、使い方によってはあらゆる課題も解決するだろうし、いま思い返せば改札の駅員さんが手で切符もぎりをしていたことが信じられないように、なくなる仕事も出てくるだろう。けれど、結局AIは手段やツールであり、人間がよりよく生きるためのものであること。そして欧州では現在特にその自然負荷が大きな問題になっていて、なによりも莫大なエネルギーを消費し続けることが前提になっていること。これらはとても持続可能に人間社会を根本から覆しうるものではなく、早くからAIに頼らない暮らしを心がけ始めている。(自分の頭で、問いなき答えを追求していきたいというものある)
最近、自治体や企業の広告で生成AIによるものが増えていて、その出来に驚きすら覚えるのであるが、決定的な"人間としての心地よさ"を欠いているものが多い。単純な改行とか、色合いとか、人間なら思いつかないであろう配置とか、それは多岐にわたっていて、いまのところ私はそのような自治体や企業を支持できない。「この組織は大切な部分に人や予算を投じない(投じることができない)のだ」という逆ブランディングが残るのみである。このあと生成AIもものすごく頑張って、巨匠クリエイターと変わらない仕事をできるようになるかもしれないが、そうだとしても、人が頭で考え、手を動かし、つくったものを称賛したいし、それに対して対価を払いたい(そして環境負荷は減らしたい)。これは単純な技術批判などではなくて、その先にどのような人間や社会を望むかという大切な話である。
なので、私などの規模ではとても微々たるものであるが、人間の税理士さんへお願いする。そうすると、仕事以外のつながりも増えるし、情報も入ってくる。なによりも年に一度の事業共有のランチが、切れ目なく続く個人事業主の自分にとってはかけがえのない時間。また簡単なブランディングでも、できる限りカメラマンさんやデザイナーさんへお願いする。そうするとその人たちもそのブランドを応援してくれるし、なによりも「ともにものをつくる」という過程が、めちゃくちゃ楽しく、これまたかけがえがない。
そう考えると、私たちは便利さや手軽さと引き換えに、人生においてなにかとてつもなく大切なものや経験を、失っているのだろうなと感じる。AIに、経験はできないのにね。
これもまた息子に伝えなければならない大切なことである。




















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