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  • chiharuf

カテゴライズ

引き続き緊急事態宣言もあと1ヶ月延長されるような報道がされているが、今日はのっぴきならない仕事で急遽、滋賀県に向かう新幹線ひかりの中でこれを書いている。変わらず対策を徹底しての移動であるが、品川駅も新幹線車内もほぼ貸切で、感染拡大防止も本当に重要だけれど、これからの日本が心配で仕方がない。

小さい頃、イーオンの広告で「英語が話せると世界の数億人と話せる」(明確な数字は失念)という広告を見て、生まれて初めて自分から母に何かをやってみたいと伝えた。そこから小学生の時に英語の勉強を始めることになり、大学では英語で講義を受けられ、留学できる学部に進んだ。就職活動をしている時に、英語の道に進むべきか考えた時、自分にとってあくまでも英語はツールでしかないことに気づき、むしろその時の原体験から広告やコミュニケーションの持つ力を追求してみたいと別の道に進んだ。


そしてこのコロナ禍で、私の海外との縁やつながりは一時遮断されたかのように思ったが、かえって本国に帰ることのできない、もしくは日本に止まることを選んだ人たちの大きな人生の転換期に携わるような機会が増えていて、本当に人生のご縁はわからないものだなと不思議に思う。私の場合は、とても飽き性だから、就活時に英語の道に進んでいたらかえっていまもう英語に関わっていない可能性すらあると感じる。


そしていま各地で様々なプロジェクトに携わり、多様な方とやりとりする中で、そのプロジェクトのアウトプットはクリエイティブな映像だったり、食だったり、体験価値だったりするのだけれど、共通していることとして「もうこれ以上なにかカテゴライズする必要はないんだな」ということ。私は常々、男女や年齢などの区分で生きるよりも、老若男女でありたいと願ってきたし、だからこそそのようなカテゴライズに対しては必要以上に声を上げてきたとも思うのだけれど、生き方や暮らし方が激変する今だからこそ、映像にしても、食にしても、それがどのような属性に対して発信されるべきかの境界線が良い意味で曖昧になっているのを感じている。


先日、今期のクラスが指折り数えるほどしか残っていないソーシャルデザイン科のクラスで、マーケティング的に企画のターゲットや属性を設定するワークショップをやってみたのだけれど、先見の明がある優秀な学生たちはもうそこにさほど重要な意味を見出していない(ターゲットありきではなく、もしくはあえて設定せず、コンセプトをいかに共感してもらえるかに心を砕いている)学生が多いのをみて私は本当に嬉しかった。そうだよね、これからの時代は。


カテゴライズされない(できない)ことの強みも感じる機会が増えている。

言語化、カテゴライズできてしまうものの脆さもまた。


カテゴライズすることの意味を超えて、もっと曖昧で、しなやかに行きたいね。

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