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  • chiharuf

可視化とイメージの狭間で

昨日はとある県の職員さんとzoom会議にて新しいプロジェクトの打ち合わせ。

トピックスは「食」のあり方の再考から、「都市化」と「里山」の対比構造がもたらすもの、そしてこれからの時代における必要な視点などなど・・とっても深い議論をさせていただき、幸せな気持ちでカレーを仕込み(無限みじん切り、そしてそれの美味しいこと!)。とても充実した1日でした。

この時期、特に好きなのは線路沿いの紫陽花

そして日々、頭の中を整理しています。

これまでの仕事を思い返すと、多様な言語やバックグラウンドを持つ方々と色々なプロジェクトに携わり「可視化」し「イメージ」を共有すること、その2つの狭間で、特に時間と手間を割いてきたように思う。

・「可視化」することの大切さ

仕事を覚えたての20代の頃はとかく自分に足りない左脳や論理、「可視化」することであらゆる局面を乗り越えてきた気がする。これは海外で生活した影響もあると思うのだけど、同じ日本語を話すもの同士であったとしても、バックグラウンドやそれまでに蓄積してきた知見が全く異なるのは当然で、たとえば同じ「音楽」という言葉を一方は演歌と思うかもしれないし、もう一方にとってはジャズかもしれない。特に多様な方々を巻き込んでプロジェクトを生み出し、マネジメントする立場でもあるので、そんな不確かな距離感を埋めていくには「可視化」の過程が不可欠でもある。特に主語を省けて行間を読む文化のある日本では(言語の特性もあるのだけれど)、「阿吽」や「言わなくてもわかるよね」の空気感こそ個人的には危機を感じていて(そしてこの空気を読むということが大嫌いなひねくれ者ということもある笑)、日々の会議などで同じ時と場を共有し、同じことについて見聞きしていても、その結論や感じたことが全く違うことは多々あるので、基本的にはしつこく議題や議事録を残し共有し続けている。そして「そもそも目的は?」「この前提っておかしくない?」などの疑問を改めて可視化することもとっても大切。そういう意味では、自分も含めてあまり人間の記憶とか考えを信用していないのだと思う。だって状況に応じていくらでも変わる不確かなものだしね。

・「イメージ」の持つちから

でも、100%可視化できればそれでプロジェクトは成功かというと全くそうではなくて、むしろ最後の最後で言語化しきれない「イメージ」の遊びをどう持たせるか、メンバーとどのように「イメージ」を共有し、進めていけるか、見たことのない景色を見ることができるか、にかかっているとも思う。これは一度仕事の型を覚えて、色々と失敗も試行錯誤もしながら、30代になってからようやくできるようになったことかもしれない。特に20代の頃はまかされている何千万円や億単位の予算を切り盛りする中での「遊び」なんて当然ながら許されず、いかに先回りして失敗や不協和音の種をなくすかに奔走していたように思う。30代になり、独立して仕事のあり方が変わったこともあるだろうし、自分の意識や制御の全く及ばない出産や子育ての経験を経たことも大きいかもしれないけれど、この「できるだけ自分の手から放してみる」、「そしてそれがどうなるか手をかけず目をかけていく」みたいなことって今の私にはとてもチャレンジングで、面白い。そして、ますます不透明なこれからの時代の生き方や働き方においても必要な視点であると感じている。

しかし個人的には「可視化」よりも「イメージ」を共有できる人の方が天才と思うことが多いのだけれど、幸いにもいま周りの方々には「イメージ」型の方が多く、恵まれているなぁと思います。

さぁ、今夜はスペアリブを仕込みます。

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