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chiharuf

風を読む

最近、以前にもまして「風を読む」ということが増えてきた気がする。

それはひとつとして同じ仕事がなく(ほぼ全てが新規事業)、日々前例のないことに取り組んでいるからかもしれないけれど、時代のせいもあると感じている。


いまは私たちが思っている以上に社会が劇的に変化を遂げている時期で、日々政府の対応やオリパラ関連の対応を見るにつけ、「もしコロナがなかったら」と思う方が怖いほどのウミがいまどんどん出てきている。悲惨な状況の中で、これだけは決して忘れちゃいけないことだし評価すべきことだと思う。もしコロナがなければ、上向きの空気感とともに、いま急速に見直されている様々なこと(本質的な多様性や、働き方、あるべき分配など、課題はまだまだ山積みだけどそれでも)が「まぁとりあえず今は調子がいいし、いいや」と、見過ごされてきていたんだろうなと。それにしては私たちはあまりに多くの授業料を払っているとも思うけれど、もはや私は予定通りオリパラが開催されていた事態の方が怖い。

今年、密かに掲げていた絶対やらない3つのことがあって(ときにやるべきことよりやらないことを決める方がシンプルで簡単)、「忖度」「予定調和」「空気を読む」(改めて書くとすごい3つだなw)。いずれもそもそも私の人生からは程遠いがそれらから離れていることを改めて大切にしたい価値観でもあり、これらからできるだけ離れるからこそ、より自由で(より孤独だけれど)、より新しい価値観を生み出していけるのだとも思っている。そして昨今ますますそれらによらない社会の方向性をより多くの人が望もうとしているようにも感じる。

特に「空気を読む」は私が長年敬遠していることでもあって、そのために色々戦わなければならなかったり、しんどい思いもしている厄介なコンセプトでもあるんだけど、「風を読む」とは似て非なるものでもある。(日本語って面白いね)「空気を読む」ことによる一番の弊害は、やはりきちんと人と人同士が考えを口にせず議論がなされていかないことだと思う。だから身内できちんとコミュニケーションをとらず他力本願的に物事を進めようとする人には、かなり厳しく言ってきたとも思う。「私はあなたじゃないからわからないよ」と笑。


一方、風は。常に時代とともに動き変化するものだし、風を読むには具体的な体験や知識だけはなくて、これからの予測とか展望とか、いろいろな知見や経験を必要とする努力的なものであると私は思う。全く前例がなく、どう対応したら良いかわからないことがほぼ全てだけれど、でもこの努力を怠らずにやっていると大きく読みが外れることはないし(むしろ結構いつも合っている)、仮にディレクションが誤っていたとしてもきちんと軌道修正できる。これはしかるべき仮説に基づいたチャレンジをしているからこそだと思う。仮説なき闇雲な挑戦だと、軌道修正すらも難しい。こんなことが今社会全体でも、携わっている経営改革のプロジェクトでも、すごく起きていることだと思う。けれど、意外と可視化されたり言語化されていないことのひとつだと思う。


今年もあっという間にもう半分が過ぎ去ろうとしていて、コロナと私たちはすでに二年近くの付き合いになろうとしているけれど、これからどのような風が吹くのか。誰にもわからないし正解もないので、常に「風を読み」、たゆたいながら軌道修正していけたらと思う。

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