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chiharuf

思考を言葉にする

週末、およそ30年近くぶり!?に巾着田という場所に行きました。

文字通り、川が巾着の形に丸く湾曲している穏やかな場所で、小学校の遠足や家族で何度か訪れた場所でした。

遠足の時、クラスの男子がカエルをつかまえたのが嬉しくて、帰り際にカエルを入れた水筒以外の荷物を忘れてみんなに笑われたこととか、田んぼのそばで絵を描いているおじさんの絵がきれいですごいねと言っていたら、連絡先入りの絵葉書をくれたこととか。意外と思い出が詰まっている場所でした。

巾着田の風景

そしてこの土地は高麗(こま)という地名やキムチを使った料理が郷土料理でもあったりして、その昔(700年代)に朝鮮半島の新羅や百済との戦いに敗れた高句麗の人たちが移り住んだことが由来しているとか。(ここで繋がる世界史に興奮!)もう1300年も前のことなので、さすがに街並みや観光できるものとして何かが残っているわけではないですが、それにしても。海を渡ったあと、どうしてこんな内陸まで移動しなければならなかったのか。何かのっぴきならない理由があったとは思いますが、この穏やかな土地で暮らしたかったという気持ちはとてもわかる気がします。

・ことばにするということ

残暑に負けずに毎週講義をやっているわけですが、何よりも私も勉強になっている部分として「思考のプロセスを言葉にしてみる」ということがある。これが本当に難しくて、正解はないし、毎度タジタジ。(笑)普段、地域や食の仕事で当たり前にやっている思考や発想を紐解いてみて(大抵その思考は同時多発的に360度動いているイメージ)、それを学生の子たちが理解しやすい言葉に落とし込んでいくというプロセスは、「おお、なんか伝わってるしみんなできてる」という手応えと「やっぱりちょっと難しかったかな」という試行錯誤を毎回繰り返しているような感じでなかなかエキサイティング。そのため、毎回講義が終わってみてからでないと次回の準備はできないというのもあります。

でもこれって実は日々の生活や仕事でやっていることでもあって。

相手によって伝わるかどうか、そしてどう伝えるべきかというのは、「あうん大国」日本ではなかなか意識する機会が少ないけれど、同じ日本語で会話していても立場や状況によって受け取られ方は実は様々。企画や情報発信、言葉を生業にしている端くれとして、その辺りには敏感だと思うし、これからもそうでありたいと思う。

そして思うのが、言葉は人間や社会をもつくるということ。

よく逆だと思われがちだし、実際には鶏と卵のような関係でもあるとは思うけど。。言葉から変えられることって実は思っている以上に多いのだと思う。言葉の強いところは、まず自分自身を変えられるところ。そして自分自身が変われば、(自分というフィルターを介して眺めている)世界も当然変わってしまう。脳は案外単純なので、口角が上がっていればそのように理解するし、大丈夫と言い聞かせればそうなのだと思ってしまう。だから「こういうことがやりたいなぁ」と思って口に出したり行動しているとそのようになるし、そのような作用を昔の人たちは「言霊」と表現したんだろうなぁ。

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