物語の重要性、意味を求めること

最近、読んだ記事で「7月末まで雨が続くのはもはや梅雨ではなく、雨季だ」と書いてあって、妙に納得。新ブランド米も続々と出ているが、あれも多くが日本の亜熱帯化に合わせて品種改良されているとか。米はすごいなぁ、もうこの気候の変化に適応していると感心した。人間はおそらくそんなに早くは適応できない。最近、食べるものにスパイス料理を多く選び、作業BGMもボサノヴァが増えているのはその影響かもしれない。(?)

最近、とても面白い本に出会った。

社会学者の岸政彦さん「断片的なものの社会学」(2015)。立命館の先端総合学術研究科で教員をされている。この頃、特に激変する生活や社会で特に「物語の重要性」について考える機会が多かったのだけれど、岸先生は以下のように述べている。

ー私たちは、物語を集めて自己をつくっているだけではない。私たちは、物語を集めて、世界そのものを理解している。(中略)そうやって私たちは、日常的に、さまざまな物語を集めて生きているのだが、(中略)物語は生きている。それは私たちの手をすりぬけ、私たちを裏切り、私たちを乗っ取り、私たちを望まない方向につくりかえる。それは生きているのだ。(P.59)

なぜものがたりは必要なのか?

それとも非常時には、あくまでも現実の世界が優位で、フィクションの力はさほど重要ではないのか?

私は最近よくこう考える機会があって、そして答えは「必要である」とも感じている。

書籍や映像などの作品を通じて、脳内でその物語を追体験し、登場人物に共感・感情移入することは、これからの時代においてより不可欠になっていくであろう他者を理解しようとする「共感力」や「イマジネーション」を養うことに確かに通じていると思う。2006年に、カナダ・トロント大学の心理学者が「小説を読めば共感力が培われる」という研究結果も発表している。

そして私たちは、何かにつけて「意味」を求めてしまう生きものでもある。

ー自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。(P.193)

こういうとすごく悲観的に響くかもしれないけれど、元々人生には誰かに与えられた「意味」なんてないし、偶然生まれついた私たちの肉体も7年程度の周期で細胞レベルで全て入れ替わっている。ずっと地続きの「同じ人間」だと認識し、「名前」を与えた存在でさえも、本当は常に移り変わる不確かな連続性でできている。でも人間はそこに「名前」を与え、固定し「意味」を与えずにはいられない。それは生きていくために必要なことだし否定するつもりもないのだけど、その根っこが「絶対的に意味があるはず」なのか、「元々意味なんてない」と捉えるかで、全くアプローチが変わってくるのだと思う。

*余談だけれど「世界に一つだけの花」(2003)が大ブームになった当時の違和感はここにある。元々みんな違うのは紛れもない事実で、それを特別だとかたったひとつだとか、歌われなければならないのって、今そうじゃないからなんだろうな・・と斜に構えた私は当時ぼんやりと思っていた。笑

そしてもうひとつ紹介したい岸先生の言葉がある。

ー「良い社会」というものを測る基準はたくさんあるだろうが、そのうちのひとつに、「文化生産が盛んな社会」というものがあることは、間違いないだろう。音楽、文学、映画、マンガ、いろいろなジャンルで、すさまじい作品を産出する「天才」が多い社会は、それが少ない社会よりも、良い社会に違いない。(P.199)

これはもう"あとがき"における「世界からどんどん寛容さや多様性が失われています」という言葉とともに、心からスタンディングオベーションを贈りたい。その前後の「マジョリティ」と「マイノリティ」の文脈も含めて(かの宇多田氏も、こんな深淵を14年も前に「誰かの願いが叶うころ」で眺めていたのだろうかと感じた)、私たちは本当にどうすれば良いのでしょうね。わからない。でも、わからないってとても大切だ。そんな問いを真っ直ぐに投げかけてくれる素晴らしい書籍でした。少なくとも、何がわかっていて何がわかっていないかだけでも明確にはなる。そしてそれを言語化できる。そこからしか、何事も始められないと思うのです。

何かとせっかちに「答え」や「意味」を求めてしまう私たちが、いま必要なのは「共感力」や「想像力」を伴う課題の共有や対話の必要性なのだと思うし、幸いにも現在携わっている、学びと事業双方の世界でひとつずつ形にしていく試みを模索しています。

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