選べるということ、わかりやすさの再定義
今年は例年より慌ただしく過ごしていないせいか、きちんと梅雨が来ている感じがしますね。
コロナだけではなく日本各地で様々な被害が広がっており、少しでも多くのかたが日常生活に戻れることを日々願いつつ、自分にできる範囲での支援などをしています。
最近、「選べる」ということの大切さをよく考える。
選択肢がなく、せざるを得ない中で、とある選択を(最終的にはあくまで自分の意思によってではあるものの)、選択した人に対しての自己責任論を多く見かける機会が増えたように思う。全てにおいて自己責任論が成り立つのであればそもそも極論、国家や政府、福祉はいらないのだろうし、私はこの傾向、とっても悲しいことだと思っている。
・いまこそ求められる他者への共感力
激務か、ワークライフバランスか。
通常営業か、自粛か。
会社員か、個人事業主か。
子どもを産み育てるか、どうか。
ライフスタイルや目指すべき人生の形がこれまでのように画一的ではないし(私個人としてはそっちの方が充分面白いと思いけれど)、一瞬一瞬を自分がどのように生きたいのか問い続けなければならないというのはそれはそれでしんどいものだ。でも、その都度きちんと社会や他者が選択肢を用意してあげるということがとても重要だと感じる。やむを得ない状況の中で、傍目にはそう見えず、信じられないような選択肢を取ったとしても、果たして他に選択肢がありえたのかどうか。そんな人たちに対して「自己責任」「自業自得」や、「なぜそのような選択をしたのか」と問うことは単なる思考停止でしかないし、何の解決にもならないと思う。その前に必要なのは、「果たして他に選択肢がありえただろうか」と問える「他者への共感力(イマジネーション)」ではないか。そしてこれもまた、共感の幅はあれど先天的なものではなく、まずは「他者を知ること」、そこから始まる後天的なものと考える。
・わかりやすさのため犠牲になる"個"
それと似たテーマでもあるけれど、社会全体の“わかりやすさ”のために"個"が犠牲になってもいけないと強く思う。日本は独特な肩書きやカテゴライズによって、「その人個人がどういう人間か」よりも、「所属先」や「肩書き」によって人が繋がり、コミュニティが運営されていく機会が圧倒的に多い。これを初めて身をもって実感したのは、浪人から大学に受かったときで、周りの反応が180度変わってしまい何よりも自分が置いてきぼりだったし、まだ若かった私は反発すら感じてしまった。私自身は何ら変わらないのに、、と。その後モントリオールで生活し、社会は私をどこまでも自由と責任の伴う「個人」として扱ってくれて、そうかこれで良いのだと思うことができた。そして割と早い段階で「人の評価はアテにならない」と気づけたことはその後の人生にはプラスだった。
私の大切にしているオードリー・ヘプバーンの言葉がある。
Success is like reaching an important birthday and finding you're exactly the same.
(成功は誕生日みたいなもの。 待ち遠しい誕生日がきても、自分はなにも変わらないでしょ)
その後、大学や会社や、個人事業主や妻や母親、それはもういろんな所属や肩書きを経ているけれど、その都度それによってものすごく歓迎されたり、全く歓迎されなかったり、それはもう様々なのだけれど、その都度全くそれに揺るがない人たちが周りにいてくれたことが私はラッキーだったしありがたかった。でも、もしそういうサポートが周りになかったとしたら?社会の単なる”わかりやすさ“から外れてしまった人への共感こそいま必要なのではないか。
・個人への期待レベルが絶妙なフランス
ルームメイトがフランス人だったり、フランス在住の方々などフランス語が話せない割にはフランスと何かと縁がある私は、よくフランスの社会制度やシステムについて話をする機会が多い。そもそも人権大国・フランス。家族であっても、長男長女や男女関係なく家庭の中で「あなたはいま何の仕事をしていて、何のプロフェッショナルなの?」と聞かれる機会が多いとか。私はこれ、涙が出そうなほどうらやましかった。日本の女性はいまだに、同じように努力して学び仕事をしていても、結婚は?出産は?と憚らず聞かれ続けている。単純に一方の良いところだけを称賛するつもりはないけれど、デモひとつとっても、それに対する一般市民の理解が「それなら仕方ないよね」と、どこまでも「人間は血の通った存在である」、それが生み出す不合理や不便さも含めて、豊かに認めている社会だと感じる。同時に子育て制度では、こんなにハードなこと、両親もしくは母親or父親だけでこなせるわけがないと個人への期待レベルはとても低いのだそう。笑 だからこそ社会は常に虐待やネグレクトに目を光らせ続けているし(裏を返すと何もなくても疑われる機会も多い)、国は就学年齢を3歳に引き下げ(誰でも無料で教育を受けられるが、義務ではない*この辺りのバランス感覚が天才的)、父親には育休取得を国費を挙げてサポートし、当然のこととして母親にはどんどん就労を支援する。それは個の実現のためだけではなく、国家としても長期的に見て納税も増えるし教育に早期投資もでき良いことづくめなのだ。
色々と話が行き来してしまったけれど、まさに今日の講義はこの辺りの選択肢と多様な視点を育むために必要な基礎の基礎、「メディアの役割と情報リテラシー」について。情報で溢れ不透明な時代だからこそ、何が正しくて自分はどう考えるか?リテラシーの重要性が高まる中、学校でも会社でも学ぶ機会がなく、私はここにとても危機感を感じている。どのように情報を収集し、咀嚼するか。ここから選択肢とわかりやすさの再定義は生まれるのではないかと思う。