都市と里山のはなし

まだまだ予断は許されないけれど、少しずつ戻ってくる日常の足音。

昨日から担当している学校の講義がオンラインで再開され、私もリハビリしながら日々を取り戻しつつある。なんだか以前までとは全く別の生活に見えるけれど、考えてみれば本当は1日として同じ日はないのだから当然といえば当然なのかもしれない。

井の頭公園は今、一番美しい季節

今回の生活で内へ内へと思考をめぐらせているとき、よく「都市と里山」のことを考えていた。私はいま紛れもなく都市に住んでいるわけだけど、都市での生活をストップせざるを得ない状況の中、自分と向き合う時間(料理したり、散歩する時間など)をはじめとして、自然と向き合う時間が多かったように思う。私を物理的に構成する要素が紛れもなく自然の一部であるからということもあるだろうし、普段街で大人とばかり生活しているとなかなか忘れがちな身体感覚を、いま子どもと多くの時間を過ごして取り戻しつつあるせいもあるかもしれない。(よく「子どもは自然(の一部)」とも言われる)

普段から都市に住んでいる時には「都市型自然」でもある公園や限られた木々、緑にすがり付いて生活しているけれど、去年とある地域の宿に泊まった時、自分が都市の要素を求めていることに気がついた経験があって、自分のことながら呆れてしまった。(自然を求めて遠路はるばる来ているのに私は一体何をしているんだろう、と)以降、このことが何かにつけてよく思い出され、さらにこのコロナ禍で自分が今後自分が生きていく場所を考える時にもよく考えていた。

養老孟司さんが「都市は人間の脳や意識が作り上げたものである」と常々おっしゃっているように、人間の意識だけでやってるとどこかで必ず限界がくる。私が大学受験に失敗した時(いま思えばあれはうつ状態だったと思うのだけど)、頭の中で考えても考えてもなかなか答えが出ず、気が付くと暇だったこともあり母の畑を手伝って土いじりをしていた。でも結果、それがとても良くて「なんだ自分はこれで良いじゃないか」とどこかで思え、身体感覚を取り戻すことができて、再び自分の道を歩き出すことができたのでした。これ、さかなクンも言っているけれど、人間の世界だけが全てじゃない、世界はもっと広いということを感じられる機会が都市だとなかなか難しい時があるのだと思う。

今回のコロナ禍で私にとっての都市の価値とは、やはり街自体であり、多様な人と会えることであるとおおまかな結論に行きついたので、外出して人と会えないことは、自分にとってはあまり都市に住む意義がないと感じられることが多々あった。(家賃高いしね)

でももう少し考えをめぐらせてみると、そもそも自分の中で「都市と里山」が二項対立として存在していることにも気がついて、本来はどちらか一方でもないし、その2つの自分なりのバランスを実現することこそが人生のひとつの目標でもあるなぁと思い当たったのでした。(これは地域と東京の関係とか、現在の日本のあらゆる構造にも言えることですね)そしてそういう意味では今、少し自分には里山が足りていないかな。

引き続き模索しつつ、自分なりの形を見つけていきたい。

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