距離への挑戦
またもや突然降り出した雨の月曜日。
私の家は割と街道近くにあるせいか、一日中(それはもう本当に一日中)救急車の音が遠くに、そしてたまに近くに聞こえます。こんなにもずっと聞こえていると、不覚にもこの音が我が家に到達する日のことを考えてしまう。あっという間に4月も終わろうとしていますが、いかがお過ごしですか?
今回は前回の記事に引き続き、COVID-19が私たちの生活や生き方にもたらすと個人的に考える3点のうち、2つ目である「大切な人との物理的かつ精神的な距離感への挑戦」について考えてみたいと思います。
1、目に見えない「無意識」への挑戦
2、大切な人との物理的かつ精神的な距離感への挑戦
3、これまで謳われてきた「持続的(サステナブル)」への挑戦
・大切な人との物理的かつ精神的な距離感への挑戦
今回のウイルスは無症状にも関わらず保菌者が多いということがわかってきて、最近では都内のスーパーもレジは透明のビニールシートで覆われ、店員さんはマスクに手袋、というスタイルが定着してきました。個人的にはこの方が、うつす可能性もうつされる可能性も低減できるので安心。私たちの生活を文字通り180度変えてしまった今回のウイルスだけど、普段あまり語られることのない私たちの生活や生き方にどのような変化をもたらしつつあるのかを考えてみたいと思う。
<物理的な距離感>
今回生み出された物理的な距離感とは、日常であれば仕事関係の人たちや友人、春休みやGWで会う予定だった親戚や遠方の方々などなど、あげればキリがない。前回の記事でも書いた通り、無意識レベルに「自分が保菌者かもしれない」ということを前提に全て行動しなければならないため(そして高齢者の方がより重症化しやすいこともあり)、相手のことを尊重するからこそ、物理的な接触を断つ判断をしなければならない。我が家も例にもれず、息子が初めて佐賀のおばあちゃん(彼からすると曾祖母)に会うはずだった春の九州への帰省をキャンセルしたのでした。。
そして「もし必要あればこんなデジタルデバイスは用意しといたから」と、遠隔でコミュニケーションを取れるWiFiやオンラインツールは用意され、ギリギリのところで私たちは試されている。それは良い方向に捉えるならば、これまであまりデジタルを使いこなして来なかった方々にとっては(そして幸運にも誘ったり、教えたりしてくれる人がいれば)Digital Communicationへの参画促進になるが、もしそうでない場合には?Digital Devide(*デジタル環境に適用しているかどうかが情報や収入など貧富の差を分けること。今回の場合にはCOVID-19関連や補償情報、ひいては圧倒的な孤独を防ぐコミュニケーション不全にも)直結してしまう。こんなトリッキーな状況って・・いままでありましたっけ?そしてやはり日々感じることは、普段は直視する必要のなかった、「何がデジタルで何がリアルなのか」「あなたに必要なリソースは」そして「あなたは今どう生きるのか」がより一層問われ、試されているとも感じる。
3.11の震災と今回の件は、その成り立ちも性質も異なるので比較できないことは充分承知しつつも(そして震災をどこで体験したかによっても全く異なりますね)、震災が私たちを物理的・精神的にも結束させ("絆"という言葉が随所で使われていた)、人間関係と社会の再構築を迫られたことを考えると、今回は最低限使える道具だけ渡されて、もっと根本の「人間とは何か?」という問いを突きつけられているように思えてならない。
<心理的な距離感>
これは「物理的な距離感」とも密接に紐づくことでもあるけれど、物理的な距離感が変化すると、自ずと心理的距離感も変わってくる。対面で会わないことで消滅する、もしくは生まれたりより強化される新たなコミュニケーションや関係性のかたち。いま皆さんの周りでも新たな生態系のように立ち上がりは消え、再構築されているのではないでしょうか。
ちなみに我が家では、皮肉にも以前は忙しくてあまり会話する機会がなかった家族同士が、いまはしょっちゅう用事がなくてもテレビ電話で会話をしています。笑(その代わり、物理的に会う機会はなくなってしまったのだけど・・)
つい最近、今年のGW期間中に沖縄へ渡航する人たちの数がなんと6万人を超えるというニュースが報道されていましたが、私の那覇出身の親友は子連れ帰省する予定を高齢の両親のために泣く泣くキャンセルしたという。その後、GWに関わらず沖縄へ"脱出"する人があとを絶たず感染も拡大し医療機関も逼迫しているようで、やりきれないと話していた。心理的な距離感は、またもや私たちを試している。自分都合ではなく、相手主義で俯瞰した関係性を築けるかどうか?そのあたりの価値観が、全く異なる社会と秩序を生み出す新たな鍵として改めて目の前に提示されつつある。
そして日々、突きつけられる課題。
我が家と同じ歳の子どもがいて電車で病院に通い看護師を続けている友人など医療従事者はもちろん、日々の日常生活を保つために働いてくださっている運送会社の方やスーパー、流通、清掃などエッセンシャルワーカーの方々。その前には、自分に今何ができるかと・・、できることはやりつつも日々非力さを突きつけられる。家に留まりコロナ如何に関わらず医療機関を逼迫させないことは必要最低限で(交通事故や病気などで医療にかかる割合も減らす必要がある)、ほかに何かできることはないかと、かなり前に購入した子ども用マスクが息子には小さく使わずにとってあったのをSNSでマスク寄付を募っていた小児科の先生宛に郵送しました。そうしたらなんと、ドラマ「コウノドリ」でモデルとなった方でした。物理的・心理的ハードルを超えて、それでもツールは私たちの見たい世界を手伝う役割は少なくとも担ってくれるのだとなんだか少し励まされた出来事。
相変わらずとりとめもないですが、最後に。
敬愛してやまない宇多田ヒカル先生が、「DISTANCE」(2001年*もう20年かぁ・・)というアルバムの最後に書いている言葉がとても好きで、とあるごとに座右の銘として挙げてきたのだけれど、なんだか最近この言葉がずっと頭の中にこだましているのです。
"Wherever we are, the distance can only help us grow."
(私たちがどこにいようとも、"距離"は私たちを育むことしかできない)
工業化、経済成長、主に物理的側面で成長し世界を拡大してきた(かのように見えた)私たちが、物理的側面を最大限削り取られて精神的闘いを試されている、道具だけ渡されて。ただこの言葉が示すように、「分断」を加速させるかのように見える「距離」を、強みにしていくこともできるんじゃないか。というより、そうしないと私たち人類は生き残れないんじゃないか。そんな分岐点にいるような気がしてならないのです。
また書きます!