「ポスト」から、「ウィズ」コロナへ
実は今年は前厄のため、何かとお世話になっている深大寺へ自転車でさっとお参りし、夜はまたもやフランスの友人とオンライン飲み会を実施。笑 先ほど現実界へ戻ってまいりました。


楽しかったし話せてよかったけど、もともとお酒にリアルなソーシャル的意義を求めている私たちには少し物足りないかな。100年前の危機的状況からデジタルという「どこにいても・誰とでも」な最強ツールを得た現代人であっても、やはりリアルの何ものにも代え難さはますます浮き彫りになるようです。私たちの身体、存在こそが"リアル"なので当たり前といえば当たり前ですね。
それにしても、技術革新で世界は広がったのか、狭まったのか。
自転車をこぎながら考えていたこれについてはまた別の機会に書きたいと思う。

フランスの友人の知り合いがアジアでパスツール研究所に勤めているようで、先日の会話では今回のコロナは収束に1年半はかかるのではとも言われているよう。
ここ数週間、もうすぐ数ヶ月、今回の件で劇的に変わるであろう「ポストコロナ」の世界のことを(もし私が幸運にもその危機を切り抜けられたらだけど)考えていたのだけど、日々その性質を専門家や論文などの意見を見るにつけ、その状況を攻略し脱した状態での「ポスト」ではなく、しばらくは共に生きる世界になっていくのではないかとここ数日ぼんやり考えていました。数日前に、落合陽一さんも「ウィズコロナ」という言葉を発信されていましたね。
我が家は夫が週明けから基本的に出社停止、私はもともと自営業でもはやよくわからないほどの自宅勤務生活、子どもは先の見えない自主休園で自宅待機。プラス猫。来週からいよいよフルセット(?)での生活が始まるわけですが、なんだろう、毎食家族でごはんを食べて(私は、家族とはごはんを共に食べることで紡がれる関係性と信じて疑わない)、仕事の合間に子どもと遊び、日々買い物や子どもの散歩のぶんだけ外出する。コロナ前の生活が忙しすぎて(夫は毎日子どもに朝しか会えず、一緒に食事を取ることがない日も多く、私も子どもを預けて働いていたので今ほど一緒に過ごせていなかった)、こんな世界的非常事態になってからしか私たちはかけがえのない家族と過ごす時間を選べないのか、得られないのか、となんだか自分に愕然としてしまった。街にもおそらく同じ状況の父親と一緒に外出している子どもが増え、これまで平日にしんどそうな顔をして(これは私も)、ひとりで子どもを見ている母親の姿が消えた。
私たちは、一生懸命働いてお金を稼いで、、どうするんだったっけ?
とそんな風景を眺めながら考えてしまいました。
決して今回の状況を肯定しているわけでも楽観視しているわけでも(むしろかなり厳しい目で見ています)、ましてやこれまでの社会の形を否定しているわけでもないのだけど、なんだか色々試されているなぁと感じています。
とはいえ経済の立て直しは必須というよりかなりの挽回を必要としているし、今後経済や政治、国際社会のあり方についても急ピッチで再構築、もしくはシフトが求められてくる。これまでとは前提も状況も全く異なる中で。その時に、今回の教訓を忘れずにいたいと思う。
そういえば冒頭の深大寺では、説法の中で実は「三密」はもともと仏教用語なんですよとのお話がありました。(深大寺のエネルギッシュな護摩焚きとその後の意義深い説法、年に2〜3回は聞きに行くほどおすすめです)
【仏教の三密】(引用:http://www8.plala.or.jp/konjouin/oshie.html)
仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いています。法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとしています。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいます。
奇しくも、現在私たちが続けている目に見えないウイルスとの闘いにおいても共通点が多いのではないでしょうか。(これ言葉を考えた人は、意識してるのかな?偶然だよね?)
明日は引き続き外出自粛デイ。
そろそろ筋トレを始めます。