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  • chiharuf

3月、境界と物語

基本在宅勤務系ではあったものの、最近の情勢を受けて子どもと電車を使わず、ひたすら自宅で仕事をしながら出かけるのは公園と買い物だけという生活を続けて早1ヶ月が経とうとしています。

皆さまはその後、お変わりないでしょうか?

●「じぶん」の境界線とは?

唐突な書き出しだけど、いつ頃からだったか、「じぶん」という存在がどこから始まりどこから終わるのか、その「境界」はどこにあるかということをよく考えるようになった。もしかしたら18歳の時に入院を要する手術をして、結果大丈夫だったのだけど初めて自分の有限な「命」という感触を実感した時だったかもしれないし、仕事に全てを捧げた20代の多忙な時期に常につきまとっていた感覚だったのか、はたまた心身が急激に変化する妊娠出産期だったのか、今となっては忘れてしまったけど。

というのも日頃必要に応じて、爪や髪を切りに行ったりするけど、たまたま外出先で爪の先が欠けてそれが地面に落ちた時。髪の毛が落ちてしまった時。それはとても自然なことでなんとも思わないのに、例えばそれが爪だけでなく指も一緒に落ちてしまったら。(怖い状況ですね)もしくは髪が1本だけでなく何本も束で抜け落ちてしまった時。(これも怖い)人によっては「自分らしさ」が失われてしまうと感じる人もいるのではないでしょうか。では腕や足なら?自分が自分と認識している範囲、その「境界」ってなんなんだろうと考えることがあったのです。

そんなたわいもないしかし結構面倒でもある疑問を、目的もなく夫によく投げかけていた時、夫から勧められた本がこの本でした。(夫は活字マニアで私よりもたくさんの本を読んでいる)

●今回の出来事は「ボーダーレス」への挑戦

今回の情勢や生活の中で改めて読み返していると、前述の疑問に対して生物学的視点や細胞レベルの観点から人間が思い込んでいる「部分的な」「境界」は存在しないことを、生物学者の福岡伸一

先生が非常に興味深く説明してくださっています。

今回の出来事は、これまで人間が様々な進歩を経て実現してきた「シームレスで」「ボーダーレスな」(と思っていた)ライフスタイルや暮らしに対して、まさに「シームレスで」「ボーダーレスな」かつ可及的速やかな対応や解決が求められているという状況。福岡先生が著書や先日公開された記事で指摘されているように、今回のウイルス然り(ウイルスそれ自体では白黒つけるように即感染とならず、それは体系的な免疫システムの中でのバランスの結果による)、私たちの身体然り、そして現在多くの課題を私たちに投げかける「国境」というものの成り立ちを考えてみても、一刀両断に「ここまでがAで、ここからがB」というような明確な境界や正解というものがないこと、そしてそれにどう対応できるかが試されているような状況が日に日に目に見えてきているように感じる。

●日本の地域こそ多様で「無境界」

この問題、実は会社員を辞め日本各地の様々なプロジェクトに携わるようになってから長い間考えていたことでもあった。例えば「食」のブランディングひとつをとっても、その背景やストーリー、さらにはそこに暮らす人たちの歴史風土を考えた時に、現在の「行政区分」ではなく、「自然の境界」(例えば山や川など自然のものにへだたれた区域で同じ食文化を共有するなど)が圧倒的に根付いていて、いざそれを改めて世に出していこうとする場合には、もはや行政区分では対応しきれないということなどが浮き彫りになる。企画する側としては、できる限りその双方の要件を満たすことが求められるものの、やはり突き詰めていくと人間の事情で取り決めた「境界」にはどこかの地点で限界もあるということと、この時代においてはその「境界」をできるだけ超えていくための方法、例えば主なものとしてWebなどがいくつもあることなどに助けられ、気づかされる。

●それでも市井の人たちの暮らしは地続きに

1ヶ月前には到底信じられない状況となっているが(ということは1ヶ月の状況もまだ予測がつきづらいということでもある)、ついに今週「非常事態宣言」が発せられるようで。常々思うのだけど、私たちの世代が歴史の教科書でしかみたことのない戦争などの非常事態は、どこか今の私たちの暮らしとは根本的に異なった状況で生まれた別世界のものだと思いがちで、少なくとも私はそう思っていた。確かに状況は違うし、今回の事態はまた全く異なるものだ。でも、そこに暮らす市井の人たちにとっては、限りなくいつもの生活の地続きの中の出来事であること、そしてその中でいつも通り生活していかなければならないということ。いつもより平日の公園が親子連れで溢れていて、みんなとても楽しそうに過ごしている平和な風景を見ていると、到底新型ウイルスの感染が拡大していることなどどこか映画の世界の出来事のように思えて、なんだかとても不思議だった。映画といえば、この「非常事態は日常の地続きである」という実感を初めて与えてくれた片渕須直監督の映画「この世界の片隅に」は、そういう意味でとても衝撃を受けた。フィクションのアニメとはいえ、片渕監督が長い時間をかけて広島の市井の人々と取材と対話を重ねて作られた映画であることが実際には存在していたはずの市井の人たちを生き生きと浮き彫りにしているのだと思う。そしてこの映画が与えてくれるメッセージは、「いかなる世界でも創造性を持って自分なりに生き続けること」でもある。

●「物語」の重要性

最後に、「境界」について思い出し考えるきっかけとなった物語についても。

近年日本でも話題が絶えないスペイン・バスク地方の若い小説家による「ビルバオーニューヨークービルバオ」(キルメン・ウリベ著)

30代の若い著者でもあり主人公でもあるキルメン・ウリベ氏が自身の生い立ちや歴史を抱えて、心身ともに世界へ羽ばたいていく物語。そして国や民族の「境界」に苦しみ、人はなぜ「物語」を必要とするのか、生々しく突きつけられる。読んでいて、戦争で亡くなり会ったことのない曽祖父のことを考えていた。私は事あるごとに流浪の人生を辿った曽祖父のことを思い出し、そこに「物語」を付与していることにも気づかされた。でもそれの何が悪いのだろう?「物語」は生きる「意味」でもあり、私たち人間にはどうしても必要なものだとウリベ氏が語っているように感じられた。もし読まれた方がいたら、ぜひどんなことを考えたかお聞きしたいと思います。

それではまた。

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