誰も知らない自分になる

先週色々と怒涛で、少し疲れたので今週は怒涛を少し抑えながら、休み休みやってます。

(そういえば地味に12連勤だったし、体は嘘つかない)

今日も今日とてすごいタイトルでまぁ自分でも驚いてます。笑

最近、以前のようには旅に出られないので、過去に旅した思い出をよく反芻しているんだけれど、20代初めの頃はそこはかとなく、全く誰も自分を知らない土地へ行き、誰も知らない自分になる感覚がとても好きだったのをよく覚えている。モントリオールに留学していた頃、バックパッカーでヨーロッパなどを旅したし、その後も東欧やアイスランドを訪れたけれど、モントリオール発なので、そもそもが全く母国ではないところからのスタート(そういえば留学中、私はいわゆるホームシックというものになったことがなかった)、そこからまた異世界へ。異世界から異世界の、もはや自分の座標軸を失うぐらいの旅。でもよりひとりになって、誰も知らない環境に行けば行くほどわくわくした。


あの時の感覚ってなんだったのかなぁと最近よく思う。いまだったら若干不安を覚えたり、道中何かあったらどうしようとかそんなことを考えたりするんだろうか。当時は、飛行機がぐんぐん高みに上っていくのと同時にわくわくし、空港に着いてゲートを出て、知らない街に出ていき(当然ながら当時はスマホもGoogle Mapもない。どうやって移動してたんだろう?笑)、全く自分のことを知らない人たちと、知らない環境のなかでひとりで生活する。それをほとんど不安も感じず楽しいなんて、当時の自分のメンタリティはどうなっていたのか今更ながら知りたい。


それとも「喉元過ぎれば」と同じで(私は特にこの傾向が強いと自分でも感じる)、当時は当時なりに、不安があったけれど楽しい記憶しか残っていないっていうことなのかな?だとしたら最高だし、そうあって欲しい。


アイスランドでどこまでも続く荒涼とした地平線を延々と眺めたり、バルセロナのとある寺院でとても懐かしい感覚を覚えたり、ベルリンの蚤の市で旧東ドイツの器を探したり。幸いにも事件や事故にあったりせずよくもまぁ戻ってこられたなと思う。


そして30代半ばになるいま、自分の環境変化だけではなく、あらゆるツールのデジタル化とともに、良くも悪くも「誰も知らない自分になる」というアンプラグドな感覚?はなかなかレアになってしまい、なれる機会もなりたいと思うことも滅多になくなってしまった。それは裏を返すと「自分」みたいな何かが構築されたということでもあるんだろうか?時間や年齢の区切りはあくまでも便宜的なもので、自分って常にひとつづきなので、日記でも書いておかない限り最も掴みどころのない存在だとつくづく思う。


しかし誰も知らない自分になりたいと願っていた自分が、今や暮らしや街に溶け込んで生活しているのも悪くないし、その時の感覚や風景が私の中で何か血肉になっていれば嬉しいと思う。

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