記憶のかけらたち



いつまでも切れ目がない忙しさに疲労困憊気味の電車の中でも、さっき目を閉じたとき、留学時代初期に仲が良かったフランス人の子のことを思い出した。


留学初期、各国から交換留学で来ている学生同士の主な話題は住む場所と専攻の話など。彼女はネット開通の話でconfigurationという単語を使って、私はその時初めてその意味を知った。彼女はその後黒人の彼と早く結婚して、とても可愛い子どもたちを産んだ。仲が良かったスウェーデン人の女の子はなぜか私に色々とよくしてくれて、よく彼女の家でMovie nightとして映画を一緒に観たり、当時日本ではまだユーザーがほぼいなかったFacebookに招待してくれたのも彼女だった。その後一度だけスウェーデンで再会した。そのほか、一時期よくしてくれていたモントリオール出身の男の子やたわいもない会話、言葉の切れ端。あの時あの子はこんなことを言った、あんな服を着ていた。等々、、


そんなふうに、私の記憶は有益かどうかもわからない記憶で埋め尽くされていて、その分の余白が少しでもあれば最近仕事で出会った人たちの名前もすぐに覚えられるはずなのに、常に容量不足気味なのだ。

でも何が有益で無益かなんて、いまの一瞬の私の価値基準でしかなくて、人生や人体はそんなふうにはできていない。

そう考えると、脳がいつか来たるべき時のためにきちんととっておいてくれているのに、一度も引き出しから出さないまま消えていく記憶たちも実はいるのだろうな。

そんなことを思いながら、思い出ともつかない記憶のかけらたちを、また会うことを楽しみにしながらそっと引き出しに戻す。

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