- chiharuf
母性の不在(映画「マザー」)
少し色々落ち着いたので、最近また映画を見始めている。
今年公開の長澤まさみ主演の「マザー」。
色々なところで書かれているように、基本的には放蕩者の母親に文字通り人生を振り回される子どもたちの、実話に基づいたどこまでも不愉快な物語である。でも、どうしてか最後まで観てしまったし、そのあとモヤモヤと心に残り続けている。自分が子どもを持つようになって、子どもがかわいそうな物語は以前にもまして観られなくなったということもあるかもれないけれど、その辺りを少し考えてみたいと思う。
全ての"源泉"をも意味する「mother」とは、一体どういう存在なんだろう。
劇中で容赦無く自分の子どもを搾取し、一切を与えず奪い、その人生を台無しにしてもなお「自分の子どもである」ことを主張することの意味とは。そんなことを観終わった後もぼんやり考えてしまってとてもモヤモヤする。それがこの映画の、(そして実話に基づいているということを考えても)大きな意義なのだと思う。
そして思い至ったのが「母性の不在」ということなんだけれど、これは近年の映画に共通するテーマでもあると思っている。例えば「インターステラー(2014)」。ご存知の通り、父子家庭の父親が世界を救うために宇宙へ飛び出す物語(私の語彙力・・)だが、父親が宇宙へ発つ決断の際、母性は存在してはならなかった。なぜならそれでは残された者たちの物語は進まないから。おそらく「安堵」や「心のよりどころ」を地球上で与えられてしまっては、娘のマーフィーは世界を救う鍵に辿り着けなかったのではないか。同じく少し前だけれど、「となりのトトロ(1988)」でも、姉妹が別の世界の住人と会う時、この世界とのつなぎ目である「母性」の存在はあってはならなかっただろうし、「エヴァンゲリオンシリーズ」でも、シンジくんのお母さんは思い出以外で出てこない。そう考えると、あの映画もこの映画も、お母さんいないじゃんって映画が結構多い。そして筋書きを考えてみると、不在には必ず理由がある。
その中で顕著だったのが、近年珍しく「父性」が不在であった「バードボックス(2018)」。
この映画においては、父親の存在説明すら確か何も出てこず、この「父性の不在」がこの映画の恐怖感を掻き立てていると個人的には思っていて、どこまでも(人の子までも)子どもを抱えて生き延びようとする母親の重圧や恐怖感に観ている側は押し潰されそうになる。(父性が存在すると、もう少し戦略的に解決しようとする物語になっちゃうんだと思う)*補足までに、私は母性や父性は物理的な性と必ずしも結びつかないと日頃考えている
対して「マザー」では、母親は物理的には存在しているのにそれは決して「居場所」を提供してくれるような存在ではなく、全くその真逆で「徹底的に奪い」「略取」する存在。「万引き家族(2018)」や「誰も知らない(2004)」では、最後それぞれ母性は存在し得なかった、けれどもこの物語では最後まで物理的には存在し続ける。存在的不在。そこで私たちは改めて「母性の存在」についての再定義を突きつけられるのだと思う。
確かに間違いなく今年の衝撃作ではあると思うけれど、しかし近年の受賞や注目される作品がことごとく、「家族のあり方」「母性の不在」(物理的には存在しても)、しかもいずれも社会的・経済的困窮の中で、を描いていることは面白いけれども少し怖い。どうなっちゃうんだ日本。これは社会的に「母性」的要素が欠如しているということでもあるのかな。そして「居場所」や「心のよりどころ」を提供しえない「母性の不在」は、「母性」にも「居場所」がないことを意味する。それは表裏一体の概念だと思う。
まさみマニアとしてほぼ全ての作品を観ている者としては、はずせない作品に認定すると同時に、ダー子(「コンディデンスマン」シリーズ)と秋子(「マザー」)を同時に演じられる女優さんって・・いま日本にはまさみしかいないんじゃないかとも思う。素晴らしい演技でした。
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