モノと記憶
これまでの社会人生で一番落ち着いた年度末を過ごして、半年ぶりの休暇を存分に楽しんでいます。
日々、筋トレしてる。来月からまたしっかり働きたいと思います。
生来の収集癖と、変なところでの記憶の良さと、元来の執着心があいまって、なかなかモノが捨てられない。
自分のモノはまだ多少綻んでも繕ったりしながら使えるが、子どもはどんどん大きくなる。もって1年か2年、季節の移ろいとともに私の最も苦手とする断捨離を迫られる。今回は、特にこの時が来てしまったという感じ。
ジイジと息子が最後の時を過ごした思い入れのある服たちとサヨナラする時が来てしまった。私はもう、身だけではなく魂をも切られるような思いでサヨナラする息子の服をまとめる。きっとまた新しい出会いがあると自分に言い聞かせながら。
このモノに対する執着がある人とない人の違いってなんだろうともずっと考えている。
服ならアパレルへの関心が高いか低いかでサイクルも変わるだろうし、モノにどんな要素や機能を求めているかでも変わってきそう。ちなみに私は服に対する関心は低い方で、友達と懐かしい写真を見ながら「あ、この服まだ持ってるわ〜」と話して大抵驚かれるほう。笑
そして私はたぶんモノとサヨナラするとき、思い出さなくても良い記憶や思い出や風景まで思い出してしまうほう。これを着た時こんなことがあった、これと一緒にあの楽しい・つらい時間を過ごした、などなど。
みんなは別れの時、どうしてるの?
私にはみんなとてもクールに、スマートに、別れられているように見える。それとも実はみんな悲しんでいるのかな。
モノと別れることが記憶や思い出と別れることではないと頭ではわかっていても、こころはどこか別の場所にあって、なかなかモノを手離そうとしない。目に見えないものの尊さ・不確かさが痛いほどわかっているからこそ、目に見える、一見確かなモノに執着してしまうのかもしれない。だから私は、誰もが手を出してはいけないと言われる空き家なんかに手を出してしまう。
さて今回の思い入れのある服たちは、息子より少し年下で、雰囲気や顔立ち、ひいては似合う色味や服が似ている遠方の弟分のところへ旅立つ予定。思い入れのあるモノたちがクローゼットの中で行き場なく色褪せていくよりも、思い切り手放して、またどこかで誰かに喜んでもらえることの方が自分も思い出も嬉しい、ということをこの年にしてようやく学べたような気がします。
春は出会いと別れの季節だね。
少しでも皆様の別れと出会いが素敵なものになりますように。
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