わかりやすさは誰のもの?

最近良くはないと思っていても、本当に時間がない。

本当はもっとせっかく家についている猫の額ほどの庭の手入れをしたり、もう少し素敵な仕事部屋にしてみたりとか、季節の洋服を整理したりだとかしたいんだけど、時間がない。


時間がないので、全てのメモや議事録やアイディアなどをevernoteでまとめているのだけれど、そろそろ課金版にアップグレードしたら?というお誘いがついに来てしまっている。


そんななか、最近よく考える「わかりやすさ」って一体誰のものなんだろうということ。

当然、人間社会の運営において一定の「わかりやすさ」は必要だと思う。


でも、これはよく鹿児島の実家に帰ったときなんかに、夜道が全くの暗闇のとき「あぁ、人類はこの暗闇を恐れて、恐れて、いまの闇ひとつないネオン街の東京を作ったのだな」ということを考えたりするんだけれど、それに似ていて、「わかりにくさ」というものは人間にとって本能的に不快だし危機感を感じるものなんだなと思う。


特に大切なものごとにおいては「わかりやすい」ことって実はあんまりなかったりもする。

そもそも私たちが住んでいるこの銀河系や宇宙の存在だってまだわかっていないことの方が多いし(例えが壮大すぎ?)、自分たちがどこから来て、なんのために生きて、どこへいくのかすら曖昧だっていうことの前提を覚えていたいと常に思う。


超ミクロな視点で、私の仕事のことなんかも、もっとわかりやすくすればうまく進んだり、拡大したりすることもあるのかもしれないけれど、でもその時の「わかりやすさ」って一体誰のためのものなんだろうと思ってしまうんだよな。


一方で、役所をはじめとした子育て関連からは、常に管理手続きをする側からの「わかりやすさ」を求められ続けるわけなんだけれど、それってわかりやすい状態にたまたまなっていればベストだし、そういう状況で問題ない方々は全くそれでよくて、でも人間ってグラデーションのようなものでそもそもそんなに紋切り型に「わかりやすい」存在でもないこと。そしてその「わかりにくさ」から、いかに目を逸らさないで居続けられるかが自分のミッションでもあるなぁと、これはもはや半分意地かもしれないけれど、最近自分の生活や仕事において考えたりしています。

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