たらの芽の天ぷら

年末から年始、年度末と駆け抜けた数ヶ月。

ようやく今週で諸々落ち着き(?)、久々に自分のいろいろなものとの格闘にひとまずは勝てたと言ってもいいのかな?と思います。でもいま振り返っても、割と辛めの局面でも楽しく過ごせていた(そして実際いま振り返っても楽しかった!)のはひとえに最高に仕事ができて、いつも一生懸命でユーモアあふれる周りの方々のおかげです。いつもありがとうございます。



そして気づけば近所のお気に入りの桜の木は花をつけはじめ、梅の花の季節はあっという間に終わり。

冬の終わりの春の始まりにはいつも鹿児島の祖母が作ってくれた、たらの芽の天ぷらを思い出す。鹿児島の方では以前はGWの頃までたらの芽が採れ、私が仕事の合間を縫って帰省すると「だれたねぇ(疲れたねぇ)」と言いながらお茶を出してくれ(これがまた美味しい)、おもむろに庭へ出て行っては鈴なりのたらの芽を採ってきて、それを天ぷらにしてくれた。


もちろん料亭のようなカラッとした仕上がりではないし、プロの味ではないんだけれど、これがとても美味しかったのを覚えている。長い道のりを経てようやく祖父母の家に帰ってこられたこと、久々の再開で祖父母に会えたこと、そして何よりもすぐそこで採ってきたものを祖母が気持ちを込めて料理してくれること。その全てが何よりも嬉しくて美味しかったんだと思う。


人の「味の記憶」はとても不思議で(そもそも味覚というものはそれまでの味わいがアーカイブ形式で記憶されていくようで、だから大人は本来動物として避けるべき苦いものや酸っぱい食材を得意分野にもできるのだそう)、そのときの食材や味付けなどはもちろんだけれども、それだけでは「人生の味の記憶」にはならず、作ってくれた人とか、一緒に食べた人とか、その場の状況や雰囲気や空気感とともに一緒にアーカイブされていく。食の記憶にかかわらず、そういうものしか墓場には持っていけないんだよなぁとつくづく思う。


だから日々の食に関しては、工業化された「食」の便利な部分は過度ではなく最低限享受しながらも、また全てをオーガニック食材や無添加にこだわりすぎることなく、その時々の旬や体調を踏まえつつ、息子の人生の味の記憶に残るものを作れているかなーというのはたまに意識して、長い目線で取り組んでいることでもある。


4月から我が家は夫の仕事が変わり、息子の保育園が変わるのだけれど、私は仕事はひと息つきながら(つくかなw)、祖父母や父母が作ってくれた自分の「味の記憶」とまた少し向き合っていきたいなと思う。

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