きのこが教えてくれる「境界線」
今年のハイライトともいうべきプロジェクトが今週ついに千秋楽を迎え。
本当に長い間、先が見えずにやることも倍々増々で大変だったのだけれど、なんだか不思議と頭の中で描いたことが実現する直感的な確信みたいなものがあって(うぬぼれではなく)、全く苦ではなかった。感動的で不思議でもあり、素晴らしい人たちとの巡り合わせを感じる旅だった。
今年に入ってから、「境界線」ということをよく考える。
先日、様々なバックグラウンドを持つ方々と、きのこの師匠に連れられて山の中に入った時のこと。当然ながらきのこには四季があり、それぞれの種が好む環境や木があり。でも不思議なのは、同じ木の両側面に生えているものでも、片方は有毒なのにもう片方は無毒。また数年前に毒きのこに登録された種も、当時多くの方が一緒に食べたのに亡くなられた方は数名でその他の方は無事だったり。同じものを食べても、当然ながらきのこもヒトも、個体によってその組成や免疫構造も異なれば、毒を受ける影響の有無や深度も変わってくる。なんだか私はここに今回のコロナ禍に対する気づきがある気がしてならない。
そもそもこの世界における「境界線」というのは便宜的にヒトが作ったものに他ならない。例えば国境。地球はひとつでどこまでも球体。本来そこに境界などがあるはずもなく。だから私は地域や暮らしのことを考えるときも、行政区分はあまり頭に入れないようにしている。それよりももっと重要なのは歴史風土を形づくる地形や山や川、そんなものだったりする。そしてよく言われる「ゼロからイチ」の概念もあまりないものだと思っている。それを紐解けば、限りなくイチに近いゼロと、マイナスにちかいゼロと。その境目はどこにあるか?そしてマイナスとプラスというのも概念上の理論。どこからがゼロでイチかなんていう明確な境界線は実はなかったりする。
だから今回のコロナも、どこからが陽性で陰性か、危険で安全かなんて、本当はないのかもしれないし(というか多分ない)、冒頭のきのこが支配している世界のような絶妙なバランスや組成で世界も私たち人間も成立していて、、そんなものを人間がコントロールしようとしていることがそもそもおこがましいのかもしれない。
対策は自分のためだけでなく周りの人たちのためでもあるので、もちろんこれからも継続するけれど・・何だかそんなことを考えている。
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